まだまだいきます、美容整形物語~鼻中隔延長術

いつかこの鼻を高くする!

 

そう願って33年、ようやく私はここにたどり着いた…。

 

私はある地方都市の出身だ。両親はその県の中の「田舎」出身。

都会の人から見れば、両方「田舎」というだろう。

 

でもこういうのにも、ヒエラルキーがちゃんとある。

比較する対象が、自分の立ち位置によって決まり、それを序列化させていく。序列化しないと居心地がとても悪い。

自分の考えを固める上で、そのよりどころがなくなってしまうと、人は途端にふわふわする。

人はいつも中心が何か考えている。お手本、見本のようなものといえばいいだろうか。

 

生き方の見本、お金の稼ぎ方の見本、ファッションの見本、余暇の過ごし方の見本、仕事の見本。

 

その見本が中心で、自分はその見本のほうを向き、その立ち位置を決める。

日本にいて、その中心となる都市が東京なのは言うまでもない。

たとえば岐阜県の多治見市に住んでいたとして、県としてのくくりは岐阜市に、地理的には名古屋に、そして東京にと多治見市が円の一番外、岐阜市がその内側、名古屋がそのまた内側で、東京が中心となる。

序列化するときの軸は人が生きていくための指針となる。だからこそ、中心がどこか、スタンダードは何か。何でもかんでもそれを追い求めるのだろう。

 

この話と、鼻を高くする話。

たいして関係がないと思う人も多いかもしれないが、まったくそんなことはない。

人の顔は、それぞれ同じではない上に、記号であり形であるために、それぞれのパーツごとに美的な評価が分かれる。

この美的な評価という部分が、中心とそのほかを分ける要素になっているのだ。

美的な感覚での中心とは、美しさである。

美しい鼻、美しい目、美しい唇…。

美しさの評価は人それぞれまちまちで、文化的な要素にも大きく影響を受けるし、人種的な特徴も加味される。

一概には評価できないが、中心となるのは、やはり美のスタンダードなのである。それは最新のファッションを作り出す街、ロンドンであり、パリであり、ミラノやニューヨーク、東京といったあたりが中心だ。

そこで語られている美は、間違いなく、西洋的な基準に基づく美である。

であればこそ、顔のパーツははっきりとしており、造形はスマートで、シンメトリックな要素が多大に評価される(とはいえそれがベストではない)。

いずれにしても鼻が低いよりは高く、目が小さいよりは大きいほうがいい。

私は幼いころから、だんご鼻に悩み続けていた。

この鼻が明らかにスタンダードではなく、しかも田舎者の象徴なような気がしてならなかったため、いつか鼻を高くしたいと考えていた。

鼻中隔延長術を知っている人も多いと思う。

 

来週、いよいよその手術を受けるのだ…。